広島陸軍被服支廠とは



被爆とその後

米軍が撮影した広島陸軍被服支廠の空中写真(2枚とも、空中写真閲覧サービス(国土地理院)より)
米軍が撮影した広島陸軍被服支廠の空中写真(2枚とも、空中写真閲覧サービス(国土地理院)より)
救護所となった倉庫の様子。作者の佐藤泰子さんは、旧被服支廠の保全を願う懇談会の聞き取り調査に、「全身が焼けただれ、服はきちんと身に着けていませんでしたが、あまりにふびんで、丁寧に着せた姿で描きました」と応じている。(佐藤泰子氏作 / 広島平和記念資料館所蔵)
救護所となった倉庫の様子。作者の佐藤泰子さんは、旧被服支廠の保全を願う懇談会の聞き取り調査に、「全身が焼けただれ、服はきちんと身に着けていませんでしたが、あまりにふびんで、丁寧に着せた姿で描きました」と応じている。(佐藤泰子氏作 / 広島平和記念資料館所蔵)

 広島陸軍被服支廠は、爆心地から約2.65km(廠本部まで)離れていましたが、鉄製の扉が大きく湾曲するほどの被害を受けました。しかし、火災が発生しなかったため、被爆直後から、臨時救護所となりました。しかし、「軍の施設だから助けてもらえる」とわずかな希望を胸に逃げてきたほとんどの被爆者は手当てできるほどの十分な薬もなかったため、その希望もむなしくここで亡くなっていきました。その惨状は、峠三吉『原爆詩集』の中の詩『倉庫の記録』に描写されています。

『倉庫の記録』(峠三吉『原爆詩集より』)
『倉庫の記録』(峠三吉『原爆詩集より』)

 戦後は、1946年1月22日から広島県広島第一高等女学校が分散授業場としてレンガ倉庫を利用し、同年4月からは広島高等師範学校(1949年から広島大学教育学部)が校舎として使用しました。1955年からは、日本通運株式会社が使用しており、1964年からは10番庫を広島大学の学生寮(薫風寮)として使用し始めました。

10番庫の内部。学生寮として使用するため、扉を付け替えているのがわかる。(河口悠介撮影)
10番庫の内部。学生寮として使用するため、扉を付け替えているのがわかる。(河口悠介撮影)
学生寮として使用されていた時の便所の跡。10番庫の西側に設置された。(河口悠介撮影)
学生寮として使用されていた時の便所の跡。10番庫の西側に設置された。(河口悠介撮影)

1959年(昭和34年)の広島県立工業高校。レンガ倉庫は校舎としても使用された。(広島県立工業高校同窓会提供)
1959年(昭和34年)の広島県立工業高校。レンガ倉庫は校舎としても使用された。(広島県立工業高校同窓会提供)
レンガ倉庫での授業の様子。広島県立工業高校創立100周年記念誌「写真で綴る百年史」より。(広島県立工業高校同窓会提供)
レンガ倉庫での授業の様子。広島県立工業高校創立100周年記念誌「写真で綴る百年史」より。(広島県立工業高校同窓会提供)

 1993年、日本通運が使用を停止し(貸付は1995年3月まで)、1995年3月31日を以て広島大学の薫風寮も閉鎖されました。1994年2月に広島市が被爆建物として登録したものの、現在は全く使われておらず、空き家状態となっています。