広島陸軍被服支廠は、爆心地から約2.65km(廠本部まで)離れていましたが、鉄製の扉が大きく湾曲するほどの被害を受けました。しかし、火災が発生しなかったため、被爆直後から、臨時救護所となりました。しかし、「軍の施設だから助けてもらえる」とわずかな希望を胸に逃げてきたほとんどの被爆者は手当てできるほどの十分な薬もなかったため、その希望もむなしくここで亡くなっていきました。その惨状は、峠三吉『原爆詩集』の中の詩『倉庫の記録』に描写されています。
戦後は、1946年1月22日から広島県広島第一高等女学校が分散授業場としてレンガ倉庫を利用し、同年4月からは広島高等師範学校(1949年から広島大学教育学部)が校舎として使用しました。1955年からは、日本通運株式会社が使用しており、1964年からは10番庫を広島大学の学生寮(薫風寮)として使用し始めました。
1993年、日本通運が使用を停止し(貸付は1995年3月まで)、1995年3月31日を以て広島大学の薫風寮も閉鎖されました。1994年2月に広島市が被爆建物として登録したものの、現在は全く使われておらず、空き家状態となっています。