広島陸軍被服支廠とは



軍都としての廣島

 1871年、明治維新の兵制改革にともない、東京・大阪・鎮西(熊本)・東北の4鎮台を設置したとき、広島に鎮西鎮台第1分営が設置されました。その2年後には全国の鎮台配置が改定され、全国を東京・仙台・名古屋・大阪・熊本・熊本の6軍管に分け、広島に第5軍管広島鎮台を設置しました。その後、1888年に広島鎮台が廃止となり、第5師団司令部が設置されました。 

広島駅0番ホーム跡(河口悠介撮影)
広島駅0番ホーム跡(河口悠介撮影)
広島駅0番ホーム跡(河口悠介撮影)
広島駅0番ホーム跡(河口悠介撮影)

 1894年7月25日、李氏朝鮮の地位確認と朝鮮半島の権益を巡り、日清戦争が勃発しました(正式に宣戦布告されたのは同年8月1日)。開戦を前に、第5師団に動員の命令が下り、6月9日、歩兵第11連隊が宇品を出航しましました。この翌日の10日、山陽本線が広島駅まで延伸し、そして広島駅の0番ホームから宇品港までを結ぶ国鉄宇品線を同年8月4日からたったの17日という突貫工事で完成させ、竣工の翌日の21日には開通しました。

宇品港桟橋(広島市公文書館所蔵)
宇品港桟橋(広島市公文書館所蔵)
戦後の国鉄宇品線。1972年まで使われていた(その後は貨物専用線となり、1986年に廃止となった)。(広島市公文書館所蔵)
戦後の国鉄宇品線。1972年まで使われていた(その後は貨物専用線となり、1986年に廃止となった)。(広島市公文書館所蔵)

 開戦とともに広島以東の各師団が相次いで広島に集結し、宇品から出征していきました。その中には、日清戦争とのちの日露戦争の2度にわたり、難攻不落といわれた旅順要塞(今の遼東半島先端)を攻め落とした陸軍少佐(日露戦争時は陸軍大将)の乃木希典もいました。

広島大本営(広島市公文書館所蔵)
広島大本営(広島市公文書館所蔵)
帝国仮議院(広島市公文書館所蔵)
帝国仮議院(広島市公文書館所蔵)

  9月8日には大本営を広島に進めることが発表され、15日に明治天皇が来広し、直接戦争の指揮にあたりました。広島城に大本営が置かれ(1894年9月8日に大本営進駐発令、同15日に明治天皇が大本営入りし、1896年4月1日に解散)、帝国議会も広島で開かれ、首都が一時的に広島に移転しました。

似島検疫所(広島県立文書館所蔵)
似島検疫所(広島県立文書館所蔵)
似島検疫所(広島県立文書館所蔵)
似島検疫所(広島県立文書館所蔵)

 この戦争をきっかけに、広島は軍事施設の拡張を行いました。日清戦争から帰還した部隊ではコレラが流行したため、似島に検疫所を設け、市内に軍用水道を建設しました。

 こうして、廣島は軍都として発展していき、陸軍三廠(兵器支廠・被服支廠・糧秣支廠)が建設されました。